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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)2283号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

【判旨】

(1) 控訴人は、被控訴人と同棲を始める前に、従来の勤め先を止め、友人との共同出資による事業の経営を目論んだが不首尾に終つたため、同棲開始当時は職がなく、昭和四七年初頃に一度金八万円を生活費として被控訴人に渡しただけであつた。

そのため、被控訴人が薬剤師の資格を生かして同年二月から中野区野方の高崎病院に勤務し、月額金六万円余の給与を得て生活を支えたが、控訴人はそれをよいことにして職を探すこともせず、好きな麻雀に耽つて怠惰な生活を送つていた。

(2) 控訴人は昭和四八年初頃、母親の不動産を処分して得た金を資金として杉並区高円寺で麻雀屋を開業したが、経営不振のため同年一〇月頃には閉店してしまつた。

その後も、控訴人は定職に就こうとはせず、生活の資を得る手段として、「一年間、目一杯麻雀をやらせてくれ。」と言い出す始末で、その性質を知る被控訴人も、早く正業に就くことを条件に同意せざるをえず、ほぼ毎夜、賭け麻雀に出かけて朝帰つてくるという控訴人の異常な生活が始まつた。しかし、賭け麻雀によつて得る収益は不規則で、一家の生計を維持するには足りず、被控訴人も長男の出産後昭和四九年初頃に勤務を止めていたので、経済的に困窮し、被控訴人の兄からの借金等でやりくりする不安定な状態が続いた。

(3) 控訴人の母古坂十三九は病院の附添婦等として働き、時々控訴人の許に戻つて来たが、被控訴人は十三九との折合いが悪く、控訴人に対する不満も重なつて、昭和四九年七月頃以降は、十三九が来ている間はこれを避けて知人宅に逗留する状況になつたが、控訴人には、被控訴人と母との摩擦を調整し、被控訴人の不満を和らげようとする積極的な態度はみられなかつた。そして、被控訴人の希望するところと反することは知りながら、一年を過ぎても控訴人の麻雀暮らしは止まず、職を求めようとする態度は一向に示さなかつた。

(4) 被控訴人には、勝気で、人に対する好悪の情が強く、また、思いつめて行動に出たのちには意を翻そうとしない面があり、父の反対を振り切つて控訴人と同棲を始めた意地もあつて、当初は何とか正常な家庭の建設を成し遂げようと努力したものの、賭け麻雀に明け暮れる夫の生活態度に対する不満と経済的困窮に十三九との折合いの悪さも手伝つてきわめて不安な状態に陥つている被控訴人の心情に思いを致すでもなく、怠惰な性格になじむ異常な生活をずるずると続けている控訴人に対し、被控訴人も愛想をつかして次第に絶望的な気持になり、遂に昭和五〇年九月二〇日、生活能力のない控訴人と将来にわたり夫婦として苦楽を共にし円満な家庭を築いていくことは到底できないものと決意して、二児を連れて別居した。

(5) 被控訴人は、別居後再び高崎病院に勤務し、月に金一三万円程度の収入を得、苦労しながら二児の養育にあたつていたが、昭和五二年一一月に二児を伴つて郷里の札幌市に帰つた。その間、控訴人に対する不信感は固まる一方で、愛情は全く失なわれ、再び控訴人との共同生活に復する意思は存しない。

(6) 控訴人は昭和五一年六月から内外総業株式会社に勤務し、昭和五二年二月からは千代田ビクター株式会社に、さらに昭和五三年初頃からは新徳商事に移つたが、控訴人の身の入らない不真面目な勤務態度が主たる原因となつていずれも長続きせず、同年八月からはスナツクでアルバイトをしている。

控訴人の子供への愛着はきわめて強く、札幌へ帰つた被控訴人が後述のように桜井秀計と特別な関係にあると聞くや、昭和五三年六月二三日、札幌に赴いて勝手に二児を東京に連れ帰り、母の協力のもとに、溺愛して日々を送り、子供も控訴人になついたが、同年七月二〇日、被控訴人によつて子供を連れ去られた。しかし、現在でも子供への愛着を絶ち難く、被控訴人の父で控訴人にとつては叔父にあたる小山稔夫が札幌で経営しているホテルの仕事に従事して、子供を自己のもとに引き取る態勢を整えようとしており、稔夫もこれを諒承している。そして、控訴人は、被控訴人に対しても、桜井との関係を清算し、控訴人のもとに復帰することを希望している。

二以上に認定した事実関係に基づいて判断すると、被控訴人に収入の途があるのを頼りに遊惰な生活に流れ、その後も賭け麻雀により生活の資を得るという異常な生活態勢を一日も早く脱して定職に就こうとする態度をとらないまま推移した控訴人に対する被控訴人の絶望感はきわめて強く、被控訴人の勝気な性格と別居後二児を抱えて生活していくために苦労を続けてきた時の経過により、遅くとも前記のとおり調停が不成立に了つた昭和五二年三月頃の時点で、その決意は到底動かし難いものとなつていたものと認めざるをえない。子供への愛着を絶ちえない控訴人の心情はこれを理解するに難くないが、<証拠>によると、控訴人が被控訴人の態度を頑なに我がままを通そうとしているものとしか理解していないようにうかがわれるのは、自分勝手な理屈をつけて怠惰な生活を続け、その間に被控訴人の苦悩と不信感が昂じていくことを思いやることのないまま無責任に時を過ごし、被控訴人の絶望を招いた自己の不明と甘えに対する反省を欠く自己中心的な考え方といわざるをえず、右認定の経緯からすると、別居に踏み切つた被控訴人の行動やその後の対応の仕方が、はたして至当なものであつたといえるか否かは別としても、少なくとも、その態度をもつて、一方的に婚姻の本義に背き、勝手に我がままを押し通そうとしたものとして、強く非難するわけにはいかない。

これを要するに、控訴人に対する被控訴人の愛情の喪失と不信感は決定的で、控訴人の希望にもかかわらず、その回復は到底期待し難く、両者間の婚姻は、もはや客観的に破綻に帰しているものというほかなく、したがつて、婚姻を継続し難い重大な事由があるとしてその解消を求める被控訴人の離婚請求は、これを容認せざるをえない。

控訴人は、右破綻の責任はもつぱら又は主として被控訴人にあるとも主張するが、右に認定判示したところからすれば、この主張の採りえないことは明らかである。もつとも、<証拠>を総合すると、桜井秀計は昭和四七年一一月頃被控訴人の父小山稔夫所有のビルを賃借したことから同人と知り合い、一時は同人から同人が死亡したときの葬儀の段取りを依頼されるほど絶大な信頼を寄せられる間柄になり、昭和五二年一〇月頃、被控訴人と控訴人との間の破局を聞いて、被控訴人との将来の結婚を稔夫に申し入れたこと、右申入れに対する稔夫の承諾は得られなかつたが、被控訴人が同年一一月に札幌に戻つてくるや、桜井は稔夫の妻(被控訴人の義母)千恵子とともに被控訴人のためにアパートを探してやり、その後も被控訴人のため相当の経済的援助を続け、やがて夫婦同然の生活態度とみられて当然のような緊密な関係を被控訴人と持つようになつて現在に至つており、控訴人や近時桜井に対する信頼感を失つた稔夫から、不倫の間柄として非難・怨嗟の的となつていることが認められるが、桜井と被控訴人とが好意を寄せ合うようになつたのは被控訴人の帰郷以前からであることは、右被控訴人の供述によつてもうかがわれるけれども、右稔夫の証君及び被控訴人本人の供述によれば、そもそも被控訴人が桜井と知り合つたのは昭和五二年六月二四日に死亡した被控訴人の祖母の葬式の際のことで、控訴人と被控訴人との間の調停が不成立に了り、本訴が提起された時(昭和五二年四月二五日であることが記録上明らかである。)よりも後であることが認められるので、桜井との関係は、控訴人と被控訴人との間の破綻が決定的となつた時期よりも後のことに属し、したがつて、これを採り上げて婚姻破綻の責任を被控訴人に負わせることはできない。

三次に、控訴人と被控訴人との間の未成年の子二人の親権者は、如上判示の諸般の事情にかんがみ、被控訴人と定めるのが相当である。これまで、安楽に流れ、現実的な生活基盤を確立する責任を果たそうとする意欲が控訴人にはみられなかつたのに比べ、被控訴人は、薬剤師の資格を生かし、苦労しながら二児を今日まで育て上げてきており、弁論の全趣旨によると二児はともに心身とも順調に成長しているものと認められることに徴しても、被控訴人には、今後も二児の監護養育を果たすことを期待するに足りる生活力と子供に対する配慮及び責任感があるものと認めることができる(<証拠>によると、被控訴人は昭和五三年九月から札幌でも薬剤師としての勤務を始め、約二二万円余の月収を得ていることが認められる。)。控訴人との離婚が成立していない現在の段階においては、被控訴人と桜井との関係には不倫の非難を免れないものがあるにしても、二児の年令をも考慮すると、右の故をもつて直ちに二児を被控訴人のもとから引き離し、被控訴人の父に縋ろうとしている控訴人の監護養育に委ねることが、子供の福祉と教育の観点から必要ないし相当であるとは考えられない。さきに認定した約一ケ月間の控訴人との同居中、子供らが被控訴人のもとへ帰ることを拒否する態度を示したとする前記小山稔夫の証言及び控訴人の供述部分は、たやすく措信することをえない。

(高津環 横山長 三井哲夫)

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